職業 = 貿易コンサルタント、以上。  

 

 

昭和60年(1985年)101日に「貿易コンサルティングと実務指導」を業務とする株式会社 ジョブ貿易事務所 を設立してから、今年(2018年)で33年目を迎えます。 昨年、私自身が還暦を迎えたこと、先日、貿易アドバイザー協会(AIBA) を一緒に立ち上げた仲間が急逝したこと。 また、現在の貿易アドバイザー協会の執行部が、30歳代、40歳代の若い世代の会員に対する期待を述べていたこと、の、3点を契機として、このエピソード 『私は、「貿易コンサルタント」 という職業を このようにして作りました。』 を、後進の 貿易コンサルタント にとって、少しでも役立つことを祈念してジョブ 貿易事務所 の ウェブサイトで公開する事と致しました。

平成30年 (2018年) 7月

ジョブ 貿易事務所   代表 川田 康博 

 

 

 

1章  始動

貿易コンサルタントになろうと考え始めたのは、高校2年生の暮れの事でした。 それから、手探りで貿易コンサルタントになるためには何が必要かを考えてみて、時に臨んではその都度毎に迷いながらも一つ一つハードルをクリアーし、幸いにして33年の月日を貿易コンサルタントを職業として過ごし、還暦を迎えることが出来ました。  高校2年の学生が漠然と描いた貿易コンサルタントというものが、幸運にも自分の職業となり、現在に至っていますので、このユニークな体験が明日を担う貿易コンサルタントの方々の参考になるやもしれぬと考えて、筆を執る事と致しました。

 

最初にクリアーすべきと設定したハードルは英語でした。 中学一年生の時に、初めて英語の授業を受け勉強を始めました。 ビートルズが好きだったことと、最初に出会った英語の先生が好きだったことが幸いして、英語の成績は大変良いものでした。高校に進学する時には、英語教育に力を入れている学校を希望し、キリスト教のミッション系の学校に進みました。 希望通りに、英国人と米国人の英会話の先生の授業を受けることが出来ました。後年になって分かった事ですが、英会話の先生よりも、英語を担当していた日本人の先生(飯田先生)の授業が、大変有難いものでした。 飯田先生の授業の真価がじわりじわりと分かり始めたのは、米国に留学してからなのですが、今でも大変感謝しています。

 

通っていた高校は、大学の付属校(正確には、「関係校」と呼びましたが)であり、一定の成績があれば好きな学部に進学する事が出来ました。進学する学部を選ぶときになって大いに悩みました。 経済学部はこの大学の看板学部で人気がありましたし、貿易コンサルタントならば経済学部が当たり前だろうと決めていたつもりなのですが、土壇場で法学部に切り替えました。それは、貿易取引には国際売買契約書が必ず重要だろうと考えたからで、法律は学んでおく必要があると思ったからです。 法学部に進むと、商法、経済法(独占禁止法)、無体財産権法(工業所有権法)、会社法、破産法、国際法、国際私法など、貿易取引に関係する法律がざくざくと出てきました。貿易取引と、憲法規定である国際条約は深い関係にありますから、今となっては法学部に進んだ事は正しい選択だったと考えています。 実際に、貿易コンサルタントを開業してから、法学部で学んだことに本当に多くの面で助けられた思いがしています。講義の教材として半ば強制的に購入させられた専門書が大いに役立ちました。 最初に、FOBという言葉を知ったのも、国際私法の教科書でした。

 

法律の勉強をしながら、学生生活の楽しさを享受しながらも、常に「貿易コンサルタントへの道筋」は探し求めていました。 大学でも、英語教育には力が入っていて、英米人による英会話の授業を取る事が出来ました。しかし、いくら授業で英会話を学んでいても、現地での生活を通して「ナマの英語」に接する必要があるという思いは徐々に膨らみ続け、失せることはありませんでした。

 

 

 

2  米国留学

在籍していたキリスト教のミッション大学では英国や米国に交換留学制度がありましたが、最終的に私が選んだ道筋は、大変厳しい英語専門学校のシカゴ校を経て、ニューヨーク校へ進み、修了証書を得ることでした。全寮制の英語専門学校では異なる国籍のルーム・メイトと生活を共にするという制度で、英語の勉強も魅力的でしたが、米国の文化に触れ、色々な国の友人と出会え、彼らのそれぞれ異なる文化、習慣、信仰、生活様式を知ることになり、最終的には「日本」の事を真摯に見つめ直す事になりました。これは、留学を計画した時には思いもよらぬことでしたが、結果的に貿易コンサルタントになってから大いに役立つことになったと考えています。

 

ルーム・メイトには、次のような国の人々が居りました。 ヨルダン、パナマ、西ドイツ、トルコ、コートジボワール、クラスメイトには、イラン、アルジェリア、サウジ・アラビア、エチオピア、シリア、イタリア、フランス、スイス、オーストリア、スペイン、ギリシャ、ベネズエラ、ブラジル、アルゼンチン、タイ、台湾。 授業は勿論のことですが、授業以外で彼らと様々な事柄について話し合い、一緒に過ごした経験が私の宝物になりました。 課外授業で多国籍のグループで、博物館に見学に行った時など、それは正に fantastic なものでした。 意味不明のペルシャ文字も、イランのクラスメイトが解説してくれるというような、とても素敵な時間でした。

 

私の米国留学は、大学4年生になると同時に実施しました。 法学部の卒業単位を3年間で取得し、1年を浮かすことが、留学費用を親に出してもらう交換条件でした。もう一つの条件が「留学中はアルバイト禁止」でした。

 

幸いにして、当初の計画通り、1980年の2月までに、英語専門学校の修了証書が得られたので、全米の数十の大学への入学資格が得られましたが、私の目指したのは大学院でした。 19803月に、日本の大学の卒業証書を手に入れられることを学生部で確認した上で、渡米していましたので、留学の相談に乗って頂いた法学部の教授の推薦状、学生部の卒業見込み証明書などの書類は既に手に入れていましたし、9月からニューヨーク大学の大学院で International Business Administration を学ぶという計画を持っていました。 ニューヨーク大学では、現役のビジネスマンが講師をしているという情報も得ていました。 米国の大学にはStudent Adviser という部門があり、入学前であっても色々と相談に乗ってくれました。ニューヨーク大学の他に、コロンビア大学の相談窓口も尋ねました。幸いにして、コロンビア大学のキャンパスを歩いていた時に、偶然に日本人と巡り合い、彼がちょうど私の希望していた International Business Administration のコースをコロンビア大学の大学院で勉強している大学院生であると知りました。 彼からは色々な情報を得ることができたのですが、驚かされたのは「貿易や国際商取引の実務を勉強したいなら、ここは向いていないですよ。数学しかやりませんから。」という言葉でした。目の前が、真っ暗になった瞬間でした。 米国の大学院では、Master Course Doctor Course で合計4年という計画を持っていたのですが、計画の見直しが必要になりました。 19803月には、日本の大学の卒業式で、卒業証書だけは自分で受け取るつもりでしたので、一時帰国をして、計画を練り直す事にしました。すぐに米国に戻るつもりでしたから米国の Social Security Cardも取っていましたし、米国への再入国用のStudent Visa I-20 も確保した上での帰国でした。 そんな時に、ある人から、総合商社という日本独自の業態を持つ企業で、貿易実務の勉強をしたらどうか、と、助言をする人が現れました。これは当時の私にとっては大幅なコース修正でしたが、「授業料を払わず、代わりに給料を貰いながら勉強が出来るよ」というフレーズに突き動かされ、一大決心の末、総合商社を目指す事に舵を切りました。久しぶりに日本に帰ってみると、大学4年生だけに的を絞った就職情報の提供企業から、山のような資料が送り付けられていて驚かされましたが、結果的に企業情報の収集には大いに役立ちました。当時の傾向としては、殆どの総合商社は最初の23年が非営業部の勤務で、適性が認められれば営業部に転属されるという事を知りました。非営業部門では実務経験が積めないと考え、大学院に充てる予定であった4年間を商社の営業部で過ごす4年間に充当する事とし、合計で6年〜7年を総合商社で勤務するという計画を立てました。

 

 

 

 

                                           

                     

 

3  総合商社

総合商社にて勉強させて頂こうと決めてからは、具体的な会社の絞り込みを始めました。 目的は「貿易コンサルタントになるための実践的実務経験と知識の習得」と明確でしたから、条件のリスト・アップはそれほど難しくはありませんでした。必要条件として、次のようなものを挙げて絞り込みました。

1.総合商社であること: これは、将来、貿易コンサルタントを開業した時に、どのような商品分野のクライアントから依頼を受けるかわからなかったので、出来るだけ間口を広く取ろうと考えた結果です。 23年の非営業部門の勤務を経てから、適性が認められれば営業部門に転属されると予想を立てていましたが、仮に営業に配属されたとしても、専門商社では専門に扱っている特定分野の事しか勉強できないと考えました。総合商社が縦割り組織であることは知っていましたが、総合商社であれば、自分が配属された分野以外の商品に関しても、社内の先輩や同期を通じて必ず情報を得ることが出来ると考えました。従って、どうしても総合商社である必要がありました。

2.輸出と輸入の両方を取り扱っていること:  貿易には輸出と輸入があると認識していたので、貿易コンサルタントとしてはどちらも取り扱える必要があると考え、輸出だけの商社や輸入だけの商社は排除する事にしました。

3.規模が中規模であること: 企業組織があまり大き過ぎると、組織の中の小さな歯車になってしまい、取引の全体像が見えなくなると考えました。貿易コンサルタントが引き受ける業務内容は、恐らく取引の全体を総合的に俯瞰し、適切な指導をする事が期待されるであろうと想像し、取引の全体像を把握する経験を積む必要があると考えました。そのためには、いわゆる大手の総合商社は不適当であると考えました。 また、もしも大手の場合は、取引の全体像を把握するまでに要する時間が長くなってしまうとも考えました。商社にも、会計部門、外国為替部門、船腹受渡部門などから、総務・人事部門まで、様々な業務分野があります。 貿易コンサルタントを目指すからには、少なくとも、将来のクライアントから「貿易コンサルタントに対して期待されるであろう業務」には、全てに対応できなければならないと考えました。

4.プラント輸出を取り扱っていること: 当時、プラント輸出という言葉が新聞などに良く取り上げられていて、詳細までは分からなかったものの、ある程度の規模や資金力がある商社でないと、プラント輸出は取り扱っていないであろう事は推測できました。小規模なものかもしれませんが、将来、自分が貿易コンサルタントになった時には、プラント輸出にも対応する実力を付けておく必要があると考え、少なくともプラント輸出を取り扱っている規模の商社を必要条件として設定しました。

5.主要取引先国が「西側」であること: 上記のような必要条件で絞り込んでいくと、いくつかの商社がリストに浮上してきたわけですが、その時点で気付いた事として、主要取引先がいわゆる「西側」の国々と、「東側」の国々とに別れている商社が存在すると云う事でした。東側との取引に特化しても、貿易コンサルタントの需要はある程度見込める、と、考えましたが、先ずは西側を重視する方が順当であると考えました。 従って、東側の国々を主要取引先としている商社はリストから外す事に致しました。この時点で、いわゆる「友好商社」は対象外になりました。  1980年の世界は東西冷戦時代で、ドイツは東ドイツと西ドイツに分断されており、現在のロシアもソビエト連邦と呼ばれていて、米国と対立関係にありました。貿易コンサルタントとして取り組む先として、東側を選ぶのは現実的とは言えない状態でした。

以上の条件から絞り込んでいった結果、私のリストには最終的に4社が載っていました。幸いにして第一志望だった企業に採用して頂けました。本社は東京の自宅から Door to Door 30分という距離でしたので、辞令を受け取りに出社した初日に、辞令に「大阪支社非鉄金属部製品課に配属する。」という文字を読み、頭の中が真っ白になりました。

 

 

第4章  OJT (On Job Training)

大阪勤務については、かなり迷ったものの、結果としては予想外の収穫が得られたと考えています。 東京本社よりも、全てがコンパクトであり、コンパクトな総合商社として機能していました。非鉄金属、鉄鋼、繊維、食料、燃料化製品、機械、と商品分野も幅広く、プラント輸出も行っていましたし、国際入札にも恒常的に応札していました。 何よりも、採用当初から営業部に配属された事を望外の幸運と思いました。

会社からの説明では、「今年から方針を転換し、新人を直接営業部に配属する事になった。」との説明を受けました。 そしてそのOJT (= On Job Training = 実際の実務を通して仕事を身に付けさせる手法)を取り入れるとの説明を受けました。 この予想外の展開に、私は、実務修行の期間として4年間を目標に掲げました。 4年とは、ちょうど米国の大学院に充てようと計画していた期間です。

入社して分かった事なのですが、配属された非鉄金属本部はこの会社の主要部門でした。 取引先のメーカーは業界では最大手ばかりでした。また、競合先の商社もやはり大手の総合商社ばかりという状況でした。

恐らく、英語力を評価されたのだと思いますが、私は最初から輸出担当を命ぜられました。 具体的には、非鉄金属製品の東南アジア向けの輸出を扱う事になりました。実務経験ゼロの新人商社マンにとっては、毎日がまるで戦争のように思えたことを良く覚えています。毎日の業務は、自分が想像していたものを遥かに凌駕する濃密な内容とボリュームでした。

非鉄金属とは、金、銀、銅、アルミなど、鉄以外の金属を全て指します(後にレアメタルや新素材も担当する事になるのですが、これは貿易コンサルタントになってから、大いに私の仕事に貢献する事になりました)。これらの製品群はいわゆる高額商品で、しかも相場商品です。 主要取引所はロンドンとニューヨークにあり、必然的に英国ポンドと米国ドルの為替相場も絡んで来ました。自分が輸出する商品の価格は、商品相場で変動し、為替相場で変動しました。ソ連のブレジネフ書記長が亡くなったとのデマ報道が出る度に、米ドルが強くなり、金相場が上がりました。輸出先は東南アジアでしたから、日本との時差が少なく、見積り有効期限は平均2時間という取引を行っていました。朝は、始業時間の一時間前に出社し、ロンドンとニューヨークの非鉄金属相場のデータを纏め、英ポンドと米ドルの為替相場のデータを取り、朝9時までに主要取引先に電話で相場動向をレポートすると云う事を行います。 これを毎日繰り返しました。

輸出業務に慣れてくると、今度は輸入取引も扱うようになりました。輸入先は、豪州、アジア、欧州、南米と多岐にわたり、輸出とは大幅に異なる商戦を展開する事となりました。輸入取引は国内営業であり、非鉄金属製品のような高額商品を輸入ロットで購入できる客先は限られていて、競争は厳しいものがありました。価格競争力を上げるために、取扱金額も大きくなってきて、一本(百万米ドル)単位になると、為替レート1円の違いが100万円の違いになりますから、銀行との交渉にも熱が入りました。日本での終業時刻になると、欧州市場が明けて来ます。 あたかも、一日分の時間を「トク」したような気持になるので、夕方からは残業をしてでも欧州市場とテレックス交信をしていました。

輸出と輸入の両方を見るようになってから、貿易取引というものが立体的に見えるようになったと思います。貿易取引に対する理解は飛躍的に深まったと感じました。そして、三国間取引を作り上げて行くようになっていきました。 幸いにして、商社には多数の海外支店や海外子会社があるので、三国間取引の機動性は非常に高いものがありました。

商社の営業本部は縦割り組織でしたが、国際入札など大口の案件では、他の本部と共同で取り組むという事もしばしば有りました。他の商品分野についても、積極的に係わるように心がけました。営業部ばかりではなく、外国為替課、船腹受渡課、審査部などとも交流を深めるように努力し、結果として色々な事案に携わり、経験させて頂くことが出来ました。

私が勤務した商社はいわゆる旧財閥グループに属していたので、企業グループのノウハウの蓄積には、大変驚かされました。地下の書庫室は、貿易実務の宝庫ともいうべきものでした。自分は、「正に自分が望んでいた膨大な情報の渦の中に居る」、と、思えました。

貿易実務の詳細が見え始めて来た頃から、少しずつ感じていたことは、「このような大きなシステムとも云うべき貿易実務の集合体は、一つの体系として理論的に取り纏め、学問に成り得るのではなかろうか?」という命題でした。これこそ、最新版の貿易商務論なのですが、法学部出身の新人商社マンがそれを知るのはまだ先の話になります。

 

 

 

 

5  貿易コンサルタントとしての基本方針

中坊公平(なかぼうこうへい)という弁護士をご存知でしょうか? 有名な事件をいくつも取り扱っていた有名な方でしたが、最も注目されたのは1993年の豊島(てしま)産業廃棄物問題だと思います。 中坊弁護士の言葉で私の心に強く残っているのが「事業には、利益けん引型と理念先行型があるが、理念先行型でなければ歴史の批判に耐えられない。」というものがあります。

貿易実務を学ぼうと望んで商社に入りましたが、実務を知り始めると、実践だけではなく、やはり理論が重要である、と、考えるようになりました。これは今でも私の基本的な姿勢になっています。経験則だけに頼るのは大変危険な事だと考えています。後年、国際商取引学会に入り、商学の経済的合理性と法学の法的正義の体系的一体化というテーマに取り組む事になりますが、今目指している事は、国際私法の領域に経済的合理性を如何にして組み入れていくか、と云う事です。

総合商社に入って3年が経過し、私の計画では最後の年に当たる4年目に入ったころ、貿易実務については相当な経験を積み、理論的な背景もかなり理解したつもりになっていた私は、いよいよ貿易コンサルタントとしての独立開業の計画を練り始めました。幸いなことに、商社に勤務しながら、貿易コンサルタントの需要は必ずある、との確信を持つことが出来ました。ここで、商社勤務時代に私が感じた象徴的な点についていくつか述べたいと思います。

1: 総合商社の中でも、貿易実務を体系的且つ理論的に理解している人は限られていて、経験則に頼る傾向がある。 体系的に理論を学ぶ場が無いし、日々の仕事に忙殺されているのが主な原因であろう。

2: 新規案件として魅力のある商材や企業であっても、取引金額の規模や、与信上の観点から見送りになる案件がある。

3: 一営業マンとして活動していても、常に「勤務先の会社」という看板が大きな働きをしている。

4: 貿易コンサルタントという資格や資質を問う試験や制度は日本には未だ無い。

5: 人を見抜く力。

最後の5.について、これを実感した事がありました。 入社4年目で、勤務していた商社の社長が新しい人に代わり、大阪支社に視察にお出でになり、部単位で新社長との面談を行う機会が設けられました。新社長からは、「一人ずつ、勤務に際して日ごろ感じていることを自由に述べよ」という事で、勤務経験の浅い順で各自が述べていました。 私は、大変充実した日々を送っているという点と、予算の組み立て方が過去の実績に比重を置き過ぎているように思う、というような事を述べたつもりだったのですが、私が話し終わると、その新社長は私に向かって「あなたは禅をやっているのですか?」と尋ねたのです。私はかなり熱心な仏教徒なのですが、会社でそのようなそぶりは一切見せた事はありません。 しかし、初対面の新社長には、すぐに見抜かれてしまったのです。 これは、私にとって、大変大きな衝撃でした。

勤務先の商社には大変お世話になり、感謝の気持ちしか持っておりませんでした。 当時、商社マンの独立開業では、既知の客先や商権をそのまま引き継ぐ形で独立開業するという事例を見聞きしていましたが、それは行わない事に決めていました。今でも、商社時代の同僚や上司とは良好な関係を続けています。 尤も、非鉄金属の輸出入にはかなりの資本力が必要なので、開業したばかりの貿易コンサルタントにとって、非鉄金属業界は縁のない業界だとも考えていました。

 

以上のような事を自分なりに整理し、まとめて、開業計画を策定し始めました。 貿易コンサルタントの経営方針として次の事を決めました:-

1.取り扱う商品分野、取引先の国や地域には事前に制限を設けない。

2.一業種につき1社のクライアントしか扱わない事とする。

3.小規模なクライアントであっても、将来性を重視して取り組む事とする。

4.相性が悪いと感じたクライアントの案件は取り扱わない。

5.違法行為は一切行わない。

そして、前述のように、「理念先行型」で進める事にしていました。 最後に、どうしてもクリアーしなければならない点が「貿易実務の体系的理論形成」と、「貿易実務の実践と理論を自分が習得していると云う事を、貿易取引のことを良く知らないであろうクライアントにどのようにして納得させ、信用してもらうか」という点でした。

 

 

 


第6章  ジョブ貿易事務所

1985年(昭和60年)3月末日を以って、勤務していた商社を円満に退職し、貿易コンサルタントの開業準備を進めました。 1985年は、先進5カ国(G5)の蔵相・中央銀行総裁が9月にニューヨークのプラザ・ホテルでプラザ合意を行った年で、日本では「円高、とバブル景気」が始まる年でした。 振り返ってみれば、大変幸いなことにバブル景気の波に乗り、私が開業したジョブ貿易事務所 は、開業前に既に第1号のクライアントを獲得していました。

 

ジョブ 貿易事務所 は、理念先行型であり、従来には無かったタイプの業務を行います。 そこで、最初に取り組んだ事が以下のような「新語」の創造でした:-

1.貿易事務所 という名称と業態を考え出しました。

2.貿易顧問 という名称と業態を考え出しました。

3.貿易コンサルタント という名称と業態を考え出しました。

4.私の事務所には、「ジョブ 貿易事務所」 という名前を付けました。  この ジョブ とは、英文では JOBB と綴ります。 JOBB とは、Japan Overseas Business Bureau 4つの頭文字で構成されています。 「貿易事務所」とは、「法律事務所」、「会計事務所」と同じ発想で、各種企業の貿易に関する相談や実務処理を行うという意味で付けました。 

また、クライアントとしては海外の企業も視野に入れていましたので、英文表記でも、日本に基礎置く「貿易事務所」を表現したいと考え Japan Overseas Business Bureau という英文名称を付けました。そして、「ジョブ 貿易事務所」 という名称が出来ました。

JOBB貿易事務所」と表示する事もあります。

「貿易顧問」も、「法律顧問」と同じ発想で私が作った造語です。

 

次に取り組んだ事は、前章でも述べていた「貿易実務の実践と理論を自分が習得していると云う事を、貿易取引のことを良く知らないであろうクライアントにどのようにして納得させ、信用してもらうか」という問題でした。そこで、ジョブ 貿易事務所 は 株式会社 でスタートさせ、社会的な信用を高めようと考えました。 資本金を工面し、7名の発起人を集め、法人登記も諸先輩方の協力を得て、自分で行いました。ところが法務局に法人登記を申請した時に、思いもよらぬ問題が起こりました。株式会社 ジョブ 貿易事務所 の定款には、取扱業務として「貿易業務に関するコンサルティングと実務指導」と記述していたのですが、法務局の担当官は「具体的に貿易取引で取り扱う商品分野を定款に記述せよ。」と言うのです。総合商社の定款を読むと、非鉄金属並びにその製品、航空機並びにその製品、等のように、取扱商品が長々と列挙されています。これとじように、株式会社 ジョブ 貿易事務所の定款にも、取扱商品分野を全て記載するように求められたのです。 ジョブ 貿易事務所 は、従来にはなかった全く新しいビジネス・スタイルである、貿易コンサルタント、貿易顧問ですから、法務局が勘違いしてもやむを得ぬところです。 そこで、ジョブ 貿易事務所 の業務は「サービス業」であると説明し、分かり易い例示として、「例えばこれから開業する床屋さんに対して、どのような職種の人の髪を刈る予定ですか?」と、尋ねるのと同じです、と、説明して理解を得る事が出来ました。

 

社会的信用は、株式会社にする事で一定の効果があったと思いますが、難しかったのは「貿易実務の実践と理論を自分が習得している」と云う事を、貿易の事を良く知らないクライアントに納得してもらう事でした。ある大手の新聞に(株)ジョブ 貿易事務所の広告を出そうとした時に、その新聞社の審査部の方が突然来訪してきて、本当に私が貿易コンサルティングと実務指導が出来るのか、審査を受けた事がありました。審査部の方は、事務所内のテレックスや、ファックス、タイプライターなどの設備・備品を確認し、私の経歴を尋ねてきました。とっさの判断でしたが、商社勤務時代に或る輸出案件で会社から表彰状を貰っていた事を思い出し、その商社の社名と、私の氏名が記載された表彰状を見せて審査に通ったことがありました。

ジョブ 貿易事務所を開設してしばらくすると、バブル景気に乗った「自称貿易コンサルタント」という人がちらほらと出現し始めて来た事に気づきました。私自身も「自称」であった訳ですが、職業としての貿易コンサルタントとして、顧客満足は得られていたと自負しています。 私以外の自称貿易コンサルタントの出現に気付いたきっかけは、私のところに相談に来るクライアントの中に、よその貿易コンサルタントと相談していたが、一向に商談が進まないので、ジョブ貿易事務所 のドアを叩いた、というクライアントが次々と出て来た事でした。 1985年(昭和60年)当時、「貿易相談」という用語で広告を見掛けた事はありましたが、「貿易コンサルタント」という言葉は見た事が無かったので、ジョブ貿易事務所 に追随する、「自称貿易コンサルタント」が出て来ているのだと分かりました。

 

 

 

第7章  ジェトロ認定貿易アドバイザー試験

前章にて触れましたが、平成(1990年代)に入ると徐々に貿易コンサルタントと自称する事業者が目に触れて来るようになって参りました。特に、Windows® 3.1 が出たころからインターネットの利用者が急激に増え始め、ウェブサイトや電子メールが普及し始めると誰もが低コストで情報を発信できるようになってきました。中には、ジョブ 貿易事務所のウェブサイトを丸ごとコピーしているふとどきな「ニセ者」も出現してくる始末で、本当に貿易コンサルティングを行える技量や知識を持って真摯に取り組んでいる者と、いい加減な内容の「自称・貿易コンサルタント」が混在するという状況が生まれてしまいました。

 

当時の日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」に代表される、バブル景気の恩恵を受けつつも、対米貿易黒字が膨らんでいる時代でした。 そのような社会背景のもとに、平成6年(1994年)1030日にジェトロ(日本貿易振興会;当時の名称)が第一回「ジェトロ認定輸入ビジネス・アドバイザー試験」の1次試験を実施し、面接試験の2次試験を経て平成7年(1995年)214日にジェトロ認定輸入ビジネス・アドバイザーの第1期生 118名がジェトロから認定を受けました。 当時は「輸入ビジネス」に限定されていたものの、日本において歴史上初めて公的機関 から「貿易アドバイザーとしての技量や知識を認められた者」が排出されました当時のジェトロは「日本貿易振興会法」という法律に基づいて昭和33年に設立された特殊法人でした)。

 

バブル経済の後にやって来た円安ドル高を背景に、対米貿易黒字が膨らみ続けるほど、輸出事業が好調で、貿易と云えば「輸出」を指す時代でしたから「輸入ビジネスを理解している者」は、当然「輸出ビジネスも理解している」と考えられました。  それでは何故、ジェトロは1995年の時点で「貿易アドバイザー」ではなく、「輸入ビジネス・アドバイザー」と称したのかと云えば、あくまでも個人的な推測ですが理由は「膨大な対米貿易黒字」だったように思います。ジェトロは、通商産業省(現:経済産業省)の外郭団体とも云うべき組織でしたから、米国からの働きかけがあったとしても不思議はありません。 これ以上の対米貿易黒字は憚られたのでしょう。  輸入を促進して貿易黒字を減らすことが期待されていたのだと思います。ちょうどその頃、「輸入住宅事業」という言葉が新聞紙面を飾りました。 また「輸入住宅」の案件に関するセミナーが各方面で実施されました。動産で高額商品と云えば自動車でしょうが、自動車よりも高額な動産商品と云えば、住宅でしょう。

 

ジェトロ認定輸入ビジネス・アドバイザーが排出された歴史的背景はさておき、ジェトロの認定制度によって、「ニセ者」の貿易アドバイザーが消えていく事になりました。ジョブ 貿易事務所では、自らの事業内容を、貿易コンサルタント、貿易顧問、という言葉で表現していましたので、それらに加えて貿易アドバイザーという呼称も追加する事になりました。ジェトロは、平成12年(2000年)41日に、正式に「輸入ビジネス・アドバイザー」という名称を、「貿易アドバイザー」に変更しています。これにより、いわゆる「自称・貿易コンサルタント」は排除される事になりました。

 

私自身は、1985年から貿易コンサルタントを職業としてジョブ 貿易事務所を開業しておりましたから、ジェトロの試験に不合格となれば廃業も止むないところでしたが、無事に合格して面目を保った事になります。ジェトロは、平成20年(2008年)3月末日をもって15年間続けた貿易アドバイザー認定事業を廃止しましたので、その後はAIBA(アイバ = 貿易アドバイザー協会)が認定事業を引き継ぎました。  現在も、毎年、AIBAAIBA認定貿易アドバイザー試験を実施しています。 この試験は、現在、我が国で第三者に対して貿易取引をアドバイスし、指導する技能や知識を認定する唯一の試験です。重要な点は、「第三者に対してアドバイスや指導する事が出来る」という点です。 「自分自身が知っていて、自分で出来る」という技能や知識を認定する試験ではありません。簡単に言えば、「自身の貿易の技量を測る試験」ではなく、「貿易を教える先生としての技量を測る試験」です。 従って、現在の日本で、貿易の技量や知識を問う試験では、最も難関な試験であると言えるでしょう。

 





 

第8章  貿易アドバイザー協会(AIBA = アイバ)

平成7年(1995年)214日にジェトロ認定輸入ビジネス・アドバイザーの第1期生 118名が世に出てから、間もなくして有志達が集まり、認定を受けたアドバイザー達で団体を作ろうという動きが起こりました。最初に集まった有志のグループは自分達の会に「輸入ビジネス・アドバイザー連絡会(仮称)設立準備実行委員会」という名称を付け、この名称の下にて第1回の会合が平成7年(1995年)912日に東京で開かれました。  私も、その会合に出席し、その後数回の会合で準備を進め、平成8年(1996年)126日に東京でAIBA設立総会が開かれ、「輸入ビジネス・アドバイザー連絡会」英文名称 「Association of Import Business Advisors」略称 「AIBA(アイバ)」 が正式に設立されました。

 

AIBA設立総会では、AIBA1期の役員が選出され、私は第1期の理事に就任し、12年間のAIBAの草創期に理事としてAIBAの発展と活動に尽力致しました。 私が理事としてAIBAに最も貢献できたことは、AIBA-NET の開設であろうと思います。 当時、Windows® 95 が急速にインターネットを普及させ、ネット社会が始まろうとしていました。電子メールを利用したメーリング・リストは、閉鎖系のSNSとして必ずAIBA の役に立つに違いないと考えていた私は、当時第2期生としてAIBA に加入してきたネットに詳しかった F さん(残念ながらAIBAを退会されていますので、お名前は伏せさせて頂きます)と二人で立ち上げました。技術的な部分はF さんが担い、私は AIBA-NET 担当理事として、1996年当時では最新のSNS AIBAで普及させる事に尽力しました。未だパソコンには不慣れなAIBA 会員も多かった状況で、AIBAの勉強会としてFさんと一緒に、最初はパソコン教室から始め、インターネットの使い方、電子メールの書き方などのセミナーを何度も開きました。 AIBA-NET とは、AIBAの会員だけが加入できるAIBA内の閉鎖系のメーリング・リストで、AIBA設立から20年以上を経た現在も、AIBAの中では最重要な情報交換のツールとして活発に使用されています。

 

既に、20年以上の歴史を刻んだAIBAですが、その正式な日本語名称は、以下のように変遷し、現在に至っています:−

2000年(平成12年): 貿易アドバイザー連絡会

2001年(平成13年): 貿易アドバイザー協議会

2005年(平成17年): 有限責任中間法人 貿易アドバイザー協会

2009年(平成21年): 一般社団法人 貿易アドバイザー協会

 

AIBAが発足して2年が経過し、順調に会員数も増えてきたので、私自身は2年で理事を退任させて頂き、本業の「ジョブ貿易事務所」に注力するようになりました。 AIBAにては、現在も幾つかの事業に参加しており、AIBA会員としての活動を20年以上続けています。 振り返ってみれば、私のような生粋の職業貿易コンサルタントは、AIBAの中では未だ特異な存在であると云えます。 AIBAに入会された方々は、どなたも難関の試験をクリアーされた貿易取引の専門家である事は間違いのないところですが、「貿易の専門家」と「貿易コンサルタント」とは、似ていて非なる部分があります。 AIBA会員の経歴を拝見すると、多くの方が「その道一筋数十年」という専門家であるように思います。私の例を挙げるならば、銅管の輸出案件ならば、今でも燐(リン)脱酸銅管の仕様明細までスラスラと言えるものの、貿易コンサルタントになってから33年を経ても尚、いまだに銅管の輸出案件というものには巡り合っていないのです。 代わりに、生鮮食料品(食品安全法)、化粧品(薬機法;旧薬事法)と、貿易関係法令が複雑に絡み合い、自分にとっては全く未知の分野の案件が次々と舞い込んできました。米国の同時多発テロ以降は、安全保障貿易管理が大幅に厳しくなり、輸出についても従来以上の慎重さが必要になりました。 今まで自分が慣れ親しんできた事業分野を離れ、自分にとって「全く未知の分野」にチャレンジして進むか否かが、分かれ道のように思います。

 

今まで一度も扱ったことがない商品分野の貿易コンサルティングの要請に対し、一体どのようにしたら取り組んで行けるだろうか? 私の出した答えは、「貿易取引を実務レベルで徹底的に体系化し理論化して認識し、理解する」と云う事でした。

 

 

 

      



第9章  新堀 聰 (ニイボリ サトシ) 商学博士  {1934年(昭和9年)  〜 2013(平成25年)年2月27日}

初めて新堀 聰 先生とお会いしたのは第1回ジェトロ認定輸入ビジネス・アドバイザーの2次試験の面接試験の時でした。 私の面接官が新堀先生でした。 面接試験の席上ではありましたが、一目見て「この人は商社マンだ」と思いました。私の予想は的中していました。 商社マンから貿易商務論の学者になられた方でした。 これが、私と「貿易商務論」との出会いでした。新堀先生とは、その後、学会でお会いしたり、セミナーを拝聴したり、色々な著書を読むことになるのですが、この貿易商務論こそ、私が商社勤務時代から求めていたものであると知りました。

 

貿易商務論とは、商学(経済学)の分野の学問であったため、法学部出身の私に出会う機会が無かったとも言えますし、そもそも貿易商務論を研究している研究者の絶対数が多いとは言えない状況なので、出会う機会も少なかったと云えます。新堀先生の著書には良く次のような言葉が示されています:

 実践なき理論は空虚であるが、理論なき実践は危険である。

 

 このフレーズを読んだ瞬間に、「これに違いない!」と確信いたしました。 このフレーズは、今でも私の座右の銘になっていますし、ジョブ貿易事務所のウェブサイトでも掲示しております。 商社に勤務しながら、もやもやとしていた私の気持ちをこのフレーズが一気に晴らしてくれました。 私が探していたものは、実は貿易商務論という学問として既に存在していたのでした。最近知った事なのですが、「貿易実務(=貿易商務)」も学問の名称と捉えられているようです。 現代の貿易実務を学問と呼ばせるまでの領域に持ち上げた研究者は恐らく浜谷源蔵商学博士 でしょう。 浜谷博士の大ヒット著書である「最新 貿易実務(同文館;1982年)」は、私も商社勤務時代に購入していた実務者のバイブル的な教科書です。

 

新堀先生との出会いは、上述のように不思議なご縁とも云うべきものでしたが、ちょうど先生が「国際商取引学会」を立ち上げようとしていた時期でしたので、是非勉強させて頂きたいとお願いして、当時国際商取引学会の会長を務めていた新堀先生から会長推薦を頂き、入会させて頂きました。 貿易商務論の定義としては、『貿易取引を商学の立場から体系化し、理論化したもの{絹巻康史*(きぬまき・やすし)「貿易商務論の新しき地平」P.23 経営経理研究第64号}』とありますが、絹巻先生はその論文の中で「貿易商務論には商学と法学の協働(P.42)、商学と法学の学際的視座が必要(P.40)」であり、「経済的合理性を国際私法の領域に反映させなければならない(P.41)」と述べられています( 1998年に商学と法学の学際的な研究を目的として設立された「国際商取引学会」の発起人の内の一人)。

 

日本法のような大陸法系(成文法)の法学を学んだ者として、英文契約書を読みながらいつも感じる事は「英米法の特殊性」です。 成文法ではなく、判例の集合体からなるコモン・ロー(慣習法)に向き合うと、商学上の経済的合理性に通じるものを感じます。商法の起源が商慣習にある事から、英米法と商学には相性の良さを感じます。 一方、大陸法と商学には、なにがしか対立関係のようなものを感じます。

 

いわゆる先進国とは概ね「法治国家」であると云えると思います。 ウィキペディアによれば、「法治国家(ほうちこっか、独: Rechtsstaat、仏: État de droit)とは、その基本的性格が変更不可能である恒久的な法体系によって、その権力を拘束されている国家。近代ドイツ法学に由来する概念であり、国家におけるすべての決定や判断は、国家が定めた法律に基づいて行うとされる。」ドイツ法とは、大陸法に分類されるので、やはり英米法とは性格を異にしています。 ここで国際商取引学会の研究目的に話を戻しますが、「商学」と「大陸法系の法学」との関係は、「英米法系の法学」よりもどうやら相性が悪そうです。このようにして考えてみると、貿易商務論の視点から、私が望んでいる事を纏めてみると、それは「国際私法の領域に経済的合理性を織り込み、理論的に体系化したい」と云う事であると考えるようになりました。絹巻先生の述べられている事とほとんど同じですが、商学よりも、法学を優先している点が相違点です。 僅かな違いではありますが、この微妙な違いから、私は新堀先生に魅かれたのだと思います。

 

「貿易取引を実務レベルで徹底的に体系化し理論化して認識し、理解する」と云う私の貿易コンサルタントに対する方法論は、貿易商務論に出会った事で確固たるものになりました。

           

    




10  貿易コンサルタントの社会的意義

平成10年(1998年)、貿易商務論という強力な拠り所を得た私は、自らの職業である「貿易コンサルタント」の社会的意義を整理してみる事に致しました。ジョブ 貿易事務所 を開業してから13年が経過していました。 ジェトロの認定貿易アドバイザーとなってからは、ジェトロから色々な情報を得たり、ジェトロの事業の支援依頼を受ける事になりました。 AIBA関係の業務にも携わっていたので、貿易コンサルタントという仕事を多角的な視点から見つめる事が可能になった事が、貿易コンサルタントの社会的意義を整理する上で、大変役立ったと考えています。

 

振り返ってみれば、総合商社とは貿易商務論を実学として実践している事業体であると再認識致しました。現在の総合商社の源流をたどってみれば、19458月に第2次世界大戦に敗れ、連合国(GHQ)の統制下にあった日本が、1950年に日本の自由貿易が再開され、旧財閥系の企業を中心に巨大な組織の総合商社が形成された時点と云えるでしょう。敗戦により疲弊した我が国の経済を再建させるため、国策として貿易取引を振興してきたと云えます。 USD1=JPY360の円安固定相場を背景に、加工貿易にて外貨収入を得、貿易黒字を重ねてきました。状況が大きく変わったのは、198590年のバブル経済の勃興と破綻の時期に起こりました。円高が進み、海外旅行をする日本人が増え、外国の情報を直接得られるようになり、更には個人輸入を発端に、今まで縁の無かった海外との貿易取引というものが一気に身近なものになったと云えます。これに、インターネットという新技術が加わり、外見的には誰もが容易に貿易取引が出来ると見えるようになりました。勿論、誰もが流通コストの合理化という事を図りましたので、貿易取引の形態が従来の商社を経由させる「間接貿易」から、「直接貿易」に急激にシフトする事になりました。貿易取引の関係事業者である、国際運送業者、外国為替取扱金融機関、外航海上貨物保険業者なども、これらの新たな市場ニーズに合わせて、変容していきました。しかしながら、これらの外見的変容は全て「貿易取引のハードウェア上の変化」であったと云えます。

 

それでは、「貿易取引のソフトウェア」はどこにあったのかと云えば、それは総合商社であったと考えています。前述のように、総合商社こそ貿易商務論を実学として実践していた事業体だったのです。比喩としてパソコンの事例が分かり易いと思うようになったのは、33年に渡る貿易コンサルタントとしての実体験からなのですが、この説明方法であれば平易にご理解頂けると思います。つまり、いくらハードウェアを最新で強力なものにしても、ソフトウェアが陳腐であったり、ソフトウェアそのものがインストールされていなければ、パソコンは単なる箱でしかありません。直接貿易が急激に普及し始めた頃から、すなわち、色々な企業が貿易取引のソフトウェアをインストールせずに直接貿易を始めてしまった頃から色々な問題が起こり始めたのです。総合商社のような貿易商務(=貿易実務)のプロでも、海外との取引では紛争が起こります。 ましてや、ソフトウェアを入れ忘れた企業が貿易取引を行えば、紛争が起こったとしても何の不思議もありません。むしろ、紛争は起こるべくして起きたと云えるでしょう。繰り返しますが、これは私の33年に渡る貿易コンサルタントとしての実体験に基づいて述べています。

 

さて、この章のテーマでありますが、貿易コンサルタントの社会的意義は、ここにあると考えています。 つまり貿易取引のハードウェアを装備した各種企業に対し、従来は総合商社が提供していた「貿易取引のソフトウェア」を総合商社に代わって提供する事です。 私が商社マンだったころ、総合商社には 4つの機能があると云われていました。 1.商品の取引機能(商社の収入源)。2.金融機能。 3.取引のオーガナイズ機能。4.情報機能。バブル経済崩壊後、円高とIT技術の進歩とともに、この4つの機能は総合商社ではなくても得られるようになったと考えられ「直接貿易」が急増していきました。しかし、そこには「貿易取引のソフトウェア」が見落とされていたのです。 勿論、そのソフトウェアは「貿易商務論」に立脚したものでなければなりません。

 

このソフトウェアが対応すべき内容は広範囲にわたり、取り扱う分野も多岐に渡ります。 具体的な例示をすれば、輸出/入事業計画の検証、船積書類の作成方法、貿易金融計画、物流計画、海外顧客との交渉ノウハウ、貿易関係事業者の調整、法令遵守の検証、リスク管理、クレーム・紛争の解決、等々です。どれを取っても、貿易取引には欠かせないソフトウェアですが、ジョブ 貿易事務所 では、近年、特に「リスク管理」と「クレーム・紛争の解決」に注力しています。 そのきっかけとなったのは、ある弁護士から受けた一本の電話でした。

(続く)

 





 

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