昭和60年(1985年)10月1日に「貿易コンサルティングと実務指導」を業務とする株式会社 ジョブ貿易事務所 を設立してから、今年(2018年)で33年目を迎えます。 昨年、私自身が還暦を迎えたこと、先日、貿易アドバイザー協会(AIBA) を一緒に立ち上げた仲間が急逝したこと。 また、現在の貿易アドバイザー協会の執行部が、30歳代、40歳代の若い世代の会員に対する期待を述べていたこと、の、3点を契機として、このエピソード 『私は、「貿易コンサルタント」 という職業を このようにして作りました。』 を、後進の 貿易コンサルタント にとって、少しでも役立つことを祈念してジョブ 貿易事務所 の ウェブサイトで公開する事と致しました。
第1章
始動
貿易コンサルタントになろうと考え始めたのは、高校2年生の暮れの事でした。
それから、手探りで貿易コンサルタントになるためには何が必要かを考えてみて、時に臨んではその都度毎に迷いながらも一つ一つハードルをクリアーし、幸いにして33年の月日を貿易コンサルタントを職業として過ごし、還暦を迎えることが出来ました。
高校2年の学生が漠然と描いた貿易コンサルタントというものが、幸運にも自分の職業となり、現在に至っていますので、このユニークな体験が明日を担う貿易コンサルタントの方々の参考になるやもしれぬと考えて、筆を執る事と致しました。
最初にクリアーすべきと設定したハードルは英語でした。 中学一年生の時に、初めて英語の授業を受け勉強を始めました。
ビートルズが好きだったことと、最初に出会った英語の先生が好きだったことが幸いして、英語の成績は大変良いものでした。高校に進学する時には、英語教育に力を入れている学校を希望し、キリスト教のミッション系の学校に進みました。
希望通りに、英国人と米国人の英会話の先生の授業を受けることが出来ました。後年になって分かった事ですが、英会話の先生よりも、英語を担当していた日本人の先生(飯田先生)の授業が、大変有難いものでした。
飯田先生の授業の真価がじわりじわりと分かり始めたのは、米国に留学してからなのですが、今でも大変感謝しています。
通っていた高校は、大学の付属校(正確には、「関係校」と呼びましたが)であり、一定の成績があれば好きな学部に進学する事が出来ました。進学する学部を選ぶときになって大いに悩みました。
経済学部はこの大学の看板学部で人気がありましたし、貿易コンサルタントならば経済学部が当たり前だろうと決めていたつもりなのですが、土壇場で法学部に切り替えました。それは、貿易取引には国際売買契約書が必ず重要だろうと考えたからで、法律は学んでおく必要があると思ったからです。
法学部に進むと、商法、経済法(独占禁止法)、無体財産権法(工業所有権法)、会社法、破産法、国際法、国際私法など、貿易取引に関係する法律がざくざくと出てきました。貿易取引と、憲法規定である国際条約は深い関係にありますから、今となっては法学部に進んだ事は正しい選択だったと考えています。
実際に、貿易コンサルタントを開業してから、法学部で学んだことに本当に多くの面で助けられた思いがしています。講義の教材として半ば強制的に購入させられた専門書が大いに役立ちました。
最初に、FOBという言葉を知ったのも、国際私法の教科書でした。
法律の勉強をしながら、学生生活の楽しさを享受しながらも、常に「貿易コンサルタントへの道筋」は探し求めていました。
大学でも、英語教育には力が入っていて、英米人による英会話の授業を取る事が出来ました。しかし、いくら授業で英会話を学んでいても、現地での生活を通して「ナマの英語」に接する必要があるという思いは徐々に膨らみ続け、失せることはありませんでした。
第2章
米国留学
在籍していたキリスト教のミッション大学では英国や米国に交換留学制度がありましたが、最終的に私が選んだ道筋は、大変厳しい英語専門学校のシカゴ校を経て、ニューヨーク校へ進み、修了証書を得ることでした。全寮制の英語専門学校では異なる国籍のルーム・メイトと生活を共にするという制度で、英語の勉強も魅力的でしたが、米国の文化に触れ、色々な国の友人と出会え、彼らのそれぞれ異なる文化、習慣、信仰、生活様式を知ることになり、最終的には「日本」の事を真摯に見つめ直す事になりました。これは、留学を計画した時には思いもよらぬことでしたが、結果的に貿易コンサルタントになってから大いに役立つことになったと考えています。
ルーム・メイトには、次のような国の人々が居りました。
ヨルダン、パナマ、西ドイツ、トルコ、コートジボワール、クラスメイトには、イラン、アルジェリア、サウジ・アラビア、エチオピア、シリア、イタリア、フランス、スイス、オーストリア、スペイン、ギリシャ、ベネズエラ、ブラジル、アルゼンチン、タイ、台湾…。
授業は勿論のことですが、授業以外で彼らと様々な事柄について話し合い、一緒に過ごした経験が私の宝物になりました。
課外授業で多国籍のグループで、博物館に見学に行った時など、それは正に
fantastic なものでした。
意味不明のペルシャ文字も、イランのクラスメイトが解説してくれるというような、とても素敵な時間でした。
私の米国留学は、大学4年生になると同時に実施しました。
法学部の卒業単位を3年間で取得し、1年を浮かすことが、留学費用を親に出してもらう交換条件でした。もう一つの条件が「留学中はアルバイト禁止」でした。
幸いにして、当初の計画通り、1980年の2月までに、英語専門学校の修了証書が得られたので、全米の数十の大学への入学資格が得られましたが、私の目指したのは大学院でした。 1980年3月に、日本の大学の卒業証書を手に入れられることを学生部で確認した上で、渡米していましたので、留学の相談に乗って頂いた法学部の教授の推薦状、学生部の卒業見込み証明書などの書類は既に手に入れていましたし、9月からニューヨーク大学の大学院で International Business Administration を学ぶという計画を持っていました。 ニューヨーク大学では、現役のビジネスマンが講師をしているという情報も得ていました。 米国の大学にはStudent Adviser という部門があり、入学前であっても色々と相談に乗ってくれました。ニューヨーク大学の他に、コロンビア大学の相談窓口も尋ねました。幸いにして、コロンビア大学のキャンパスを歩いていた時に、偶然に日本人と巡り合い、彼がちょうど私の希望していた International Business Administration のコースをコロンビア大学の大学院で勉強している大学院生であると知りました。 彼からは色々な情報を得ることができたのですが、驚かされたのは「貿易や国際商取引の実務を勉強したいなら、ここは向いていないですよ。数学しかやりませんから。」という言葉でした。目の前が、真っ暗になった瞬間でした。 米国の大学院では、Master Course と Doctor Course で合計4年という計画を持っていたのですが、計画の見直しが必要になりました。 1980年3月には、日本の大学の卒業式で、卒業証書だけは自分で受け取るつもりでしたので、一時帰国をして、計画を練り直す事にしました。すぐに米国に戻るつもりでしたから米国の Social Security Cardも取っていましたし、米国への再入国用のStudent Visa I-20 も確保した上での帰国でした。 そんな時に、ある人から、総合商社という日本独自の業態を持つ企業で、貿易実務の勉強をしたらどうか、と、助言をする人が現れました。これは当時の私にとっては大幅なコース修正でしたが、「授業料を払わず、代わりに給料を貰いながら勉強が出来るよ」というフレーズに突き動かされ、一大決心の末、総合商社を目指す事に舵を切りました。久しぶりに日本に帰ってみると、大学4年生だけに的を絞った就職情報の提供企業から、山のような資料が送り付けられていて驚かされましたが、結果的に企業情報の収集には大いに役立ちました。当時の傾向としては、殆どの総合商社は最初の2〜3年が非営業部の勤務で、適性が認められれば営業部に転属されるという事を知りました。非営業部門では実務経験が積めないと考え、大学院に充てる予定であった4年間を商社の営業部で過ごす4年間に充当する事とし、合計で6年〜7年を総合商社で勤務するという計画を立てました。
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